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?ローラン出土毛織物中のヘルメス

 

ディア地方のキュレネ山中の洞穴で生まれ、死者の霊魂を黄泉の国ハデースに導くガイドの機能(プシュコポンポス)を有している。また、富と幸運をもたらす豊穣の神として商売・盗み・賭博・競技の保護者であり、さらにアルファベット・数・天文・音楽・度量衡の発明者ともされる。このように様々な職能をそなえたヘルメス神であるが、その起源はギリシア語のヘルマに求められる(注?)。ヘルマは印欧祖語からの派生ではなくギリシアの先住民族の言葉であったらしいが、意味として暗礁や岩礁、積み石、船を岸で安定させる支え柱など海と陸との境界をイメージしている。道路の辻や境界あるいは戸口に立てられたヘルメ(心石の山)はまさしくサイノ神=道祖神を象徴している。ヘルメスが洞穴から生まれ、霊魂を黄泉の国へ運ぶ役割もこのサイノ神の要素に由来するのであろう。
ところで、ギリシア美術では壼絵や彫像でヘルメスが登場する。古くは髭をはやし衣を纏った男や羊を肩に背負った牧人の姿で表され、後に翼をつけた鍔の広い帽子ペタソスを破り、手にはカドケウスの伝令杖を持ち、足にも有翼のサンダルをはいた裸身の美少年で表現される(図?)。一方、ヘルメスは上部が人間の形で、男根があり、下部は柱になっているヘルメス柱(ヘルマイ)の彫像で造られる場合もあり、まさにこれはヘルメに由来する道の四辻や入口に立てられたサイノ神=道祖神である(図?)。このような多機能の性格をもつヘルメス像はヘレニズムの波にのり各地の神々と習合しつつ中央アジアにまで到達する。現中国・新彊ウイグルのローラン(楼蘭)遺跡からはカドケウスの杖を持ったヘレニスティックなヘルメス像と目される毛織物が出士している(図?)。また、前回でふれたアナトリアのキュベレ女神を表したメダイヨンが出土したバクトリアのアイ・ハヌム(月姫の丘)遺跡では、トリバロスとストラトンという兄弟がヘルメスとヘラクレスの二神に奉納するゆえを記した方形の石柱が体育場(ギムナジオン)から発掘され、ヘルメス像とヘラクレス像はすでに失われていたが、ギリシアではこの二柱の神を体育場に合祀する習慣があるため、バクトリアの地にヘルメス像が伝播していたことが伺われる[注?]。なお、この遺跡からは上部が老人の姿をして頭にディアティム(冠帯)をつけ顎髭をはやしマントを羽織った石柱像が出土し、ヘレメス柱像を彷彿させるが、この像はアイ・ハヌムの創建者と推測されるキネアスの彫像の可能性がある(図?)。いずれにせよ、ヘレニズム文化の影響を強く受けた中央アジアでヘルメス柱像が各所に祀られていたケースも推察でき、それらの一部は道路の辻や境界でサイノ神の役割を担っていたのであろう。テレーンドラヤジャスが見たヒンドゥークシュ山頂の里沙門天石像は実際にどのような形をしていたか明らかではないが(むろん地天女に捧げられたトバツ形であったかも定かではない)、私には仏像誕生以前のヘルメス柱像の面影が投影されているような気がしてならない。おそらく、この像の頭にはガンダーラの毘沙門天像のようにヘルメスを象徴する一対の実状飾りが付いていたのではないだろうか。少し憶測が過ぎてしまったので、再び中央アジアの毘沙門天信仰に話を戻すことにする。

 

◎バルフの昆沙門天像◎

弱冠二十八歳の玄奘法師は、インドヘの求法のおもいがやみがたく、貞観三年(六二九)八月に密かに長安を発ち、天山南路を西へ向かい凌山(ベダル峠)を越え、突厥の葉護可汗(ヤグブカガン)にまみえた後、ヒンドゥークシュ西脈道を通って縛喝国(バルフ)に着いた。多分それは六三〇年の初め頃だろう。彼は城外の西南にある納縛僧伽藍(ナヴァサンガラーマ)の様子を次のごとく『大唐西域記』に記している。
この伽藍にはもとから毘沙門天の像があり、

 

 

 

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